豆まきはいつ?探索報告

予約した本の順番が回ってきたということで

図書館に行き、ふと壁に目をやると

調べもの手伝いますとの張り紙が!

そういえば、そういうコーナーがあったんだった。

早速そこへ行き…

かくかくしかじか、節分と豆まきと正月とうんぬんうんぬんと

しどろもどろに話したら、

何冊もあっというまに、書庫から出してきてくれた。

 

 

その中の一冊「年中行事の歴史学」という本を借りてきた。

一番詳しそうだったから。

数人の学者さんの共著になっている。

 

公家、武士、商人、職人、農民の行事と

分かれていて、全部それぞれ違う人が書いている。

 

あぁ。そうか。

テレビもないんだし、せぇので日本全国同じ日に

同じ行事をするわけじゃないんだと、

あたりまえのことに、まず気がついた。

 

で、肝心の豆まきをいつしたのかであるが…。

結論から言うと、やっぱり、よくわからなかった。

 

公家の章では、正月の行事しかとりあげてなかったが

武士の章を読むと、公家の行事に倣ったと書いてあるので

ほぼ、同じと思っていいのかと思う。

 

武士の暮れの行事として書いてあるのは(関係するところだけメモ)

28日、

門松、松飾りがたてられたり注連縄はったり

(幕府は29日に行う)

節分

柊鰯を戸口にさして、暮れ六つ、豆囃子にて豆を打ちまく。

晦日

清めの風呂に入るが、一般には節分のお祓いにて清浄な身となる

 

江戸の職人の行事には

十二月の終わりのほうに節分とあって、下谷牛天神祓祭とある。

これは江戸の俳人で、彫金の職人でもあった

菊岡沾凉 が書いた「拾遺江戸砂子」という本からの抜粋だそうだ。

代表としてこの一例だとか。

 

年末に、とも、節分に、ともとれる、↑の二つ。。

旧正月後に節分が来るときはどうしたのかがわからない。

 

で、商人の章に行ってみると

二ページも節分について書いてある。

節分と年越という項目で。

 

昔は追儺という鬼を払う儀式で大晦日の儀式だったが

いつのまにか、立春の前日の節分に豆をまくことにかわった、とある。

 

で、なぜかこの商人の章は大阪の商人の行事になる。

(なぜか…多分、いろんな人の文章を集めてあるからだろう。)

 

江戸時代(江戸時代のいつごろかは書いてない)

大阪では節分の夜を年越と唱えた。

年越しの夜に恵方の神社にまいる。

維新前は正月六日に年越を行った。

(ん?節分ではなく?)

維新後は新暦の二月一日か二日になった。

 

日付はあやふや?

しかし、この章の節分、風物については詳しい。

今までの数行が、ここでは二ページにわたっている。

燕麦を売りにきたり、囃子豆売り、それを煎る焙烙売り、

柊売りが大声で「ひいらぎや柊」と来る。

一升桝に入れてそなえて、自分の年より一個多く食べて

塩鰯に大根の味噌汁たべて、とろろ汁も食べる。

年越しの神社では、飴だのトウモロコシだの売っている。

 

江戸はどうだったかわからないけど、

大阪の豆まき、なかなか楽しそうだ。

 

なんとなく恵方巻が関西発であることが、うなづける気もする。

(ちなみにホワイトディは博多発。)

ひょっとして、立春の前日ではなく

正月六日と決めたのも、暮や正月がすぎて

一息ついて、もうひとイベントやろうぜ!とかだろうか?

(↑勝手な妄想)

職人と商人が違うと言うより、

江戸と大阪の違いではないだろうか。

同じ町に住んでいて、職人だから、商人だからってことは

ない気がする。

 

農民の章も公家と同じで、ふれてなかったので

わからない。

 

そうそう。

暦の章も有り、

旧暦は、昔の人もやっぱり不便だったから

十二節気も使ったし

もともと、暦というのは一種類だけではなかった!などとも書いてあった

 

多分、これ以上探しても、豆まきはいつ?というのは

はっきり、いつというのは、わからないだろうなと思う。

暦でさえ、たくさんあったんだから。

現代にしか暮らしたことがないけれど

こういうのを読んで想像すると、たのしい。

とくに、大阪篇読んでいると、時代劇を見ているよう。

 

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